九谷焼の変遷


(出典:九谷焼をめぐるとっておきの旅)

錦山窯について

錦山窯の初代吉田庄作(1888 ? 1948)のルーツを辿ると、高堂町の九谷絵付の草分けとされる小酒磯右衛門(1833 ?1900)にいきあたる。

磯右衛門は、佐野窯の斉田伊三郎(1796?1868)に学び、1859(安政6)年に独立。のちに寺井で窯を開いた九谷庄三に招かれ、陶画工として数年ほど働いている。師である伊三郎は、多くの陶画工を輩出した若杉窯の出身で、上絵を二度焼成する技法を完成し、赤絵金襴手の発展に大きな役割を果たした人物として知られる。

 

伊三郎、磯右衛門の系譜に連なるのが、荒屋(現小松市荒屋町)の石浦伊三郎(生年末詳? 1897)であり、その弟子の田中英亮(1870 ? 1951)である。そして、この田中英亮(のちに嶺山堂号す)が庄作の師となる人物である。

 

明治時代に入り、九谷焼は産業として栄え、1887(明治 20)年には日本の陶磁器貿易額の第一位となる。能美地方では、輸出向けの大量生産に備え、陶画分業場が設けられ、素地の製作と絵付の分離が推し進められた。そうした九谷焼の最盛期に田中英亮は独立し、多数の徒弟、職人を雇って手広く絵付業に乗り出した。

 

1900(明治 33)年、庄作は英亮の下に入門し、作陶を学びはじめる。数年の修業を終えたのちに金沢へ赴き、金粉を撒く 金振りという金沢絵付の技法を習得。そして 1906(明治 39)年、高堂町にて独立を果たした。

 

金の扱いに秀でていた庄作は、金振りを取り入れた墨山水や、金彩を用いた錦絵風を得意とした。金地を花紋様で埋めつ くした「花詰」という技法も手がけている。また、当時は草書体の文字を細密に描いた「細字」と呼ばれる技法も流行り出し、小田清山(1874 ? 1960)や田村金星(1896 ? 1987)などの名手が登場した時期でもある。庄作も窯の仕事として、他の職人が描いた百人一首の細字に人物画を描き、金描きを加えたものを多く制作している。折しも関東大震災により、横浜に進出していた九谷の貿易商が打撃を受け、内需拡大へと舵を切らざるを得ない時期であった。それが結果として絵付技術を向上させ、錦絵風の細密な色絵に金を使ったさまざまな技法を施す「高堂絵付」の隆盛につながった。

 

庄作には跡継ぎがいなかったため、末弟である清一(1905 ? 1941)が 1933(昭和 8)年頃に錦山窯二代となる。清一は牡丹や孔雀などの花鳥風月を取り入れた「金彩細描画」を得意とした。また、金が配給制となった戦時下には、1936(昭和11)年に設立された石川県工芸指導所の指導の下、青手九谷を用いた作品を制作。九谷のデザインを改良した多数の新しい作品を制作し、各種の美術展や工芸展に入賞している。

(出典:錦山窯)